~店名の「五明」は、江戸時代の俳人「吉川五明」から頂きました。~
五明は享保16年(1731年)秋田城下の那波三郎右衛門の五男として生まれ、 後に吉川家の養子となりました。
後に俳人として頭角を現し秋田蕉風の祖と仰がれ六百名を超える門下を従え
奥羽四天王のひとりに数えられておる「吉川五明」。
当店オーナーは「吉川五明」の子孫でありその名を使わせていただく経緯となりました。
秋田蕉風 吉川五明
芭蕉に帰れ
若年時代の五明は、上方の松木淡々(たんたん)一派の影響を受けつつ、もっぱら低俗な、おかしみをねらった句を作っておりました。しかし三十二歳のころ奇矯卑俗な当時の俳風に疑問をいだき、芭蕉の俳書を独学してその真髄に触れて蕉風を自得しました。その後「芭蕉に帰れ」の旗印のもとに芭蕉の遺風の発揚につとめ、六百の門人を擁して秋田俳壇に全盛期をもたらしたのでありました。
五明の中興俳譜運動は、明和五年(一七六八)三十八歳の時、僅か四名の同志と『四季之友』を編して芭蕉精神を鼓吹したことに始まります。中興俳譜というのは、芭蕉没後の俳譜の低俗化を嘆き、芭蕉に復帰すべしとする運動で、その気運が熟したのは明和三年四年に京都のあたりからとされております。五明の芭蕉復帰運動は全くこれと時を同じくしていたのであります。
このころ五明は、京の蕪村、金沢の麦水・闌更(らんこう)、江戸の蓼太(りょうた)、鳥羽の樗良(ちょうら)、名古屋の暁台(ぎょうたい)という一流中興俳家と文通しておりました。蕪村からは「春の海」の自画讃を贈られております。晩年は信州の一茶とも親しかったようです。
その後五明の俳風革新運動は、秋田城下の町人はもちろん藩士たちの賛同を得その俳風は次第に地方へと進出していき能代地方の貞門・談林や、当時最も勢力のあった美濃派を次々に・傘下に収め、ついにはその勢力が佐竹領のほぼ全域に及んだのであったそうです。
五明の作風
五明は多作でした。残っている句はおそらく六千を超えるのではないでしょうか。それは芭蕉の九百八十、蕪村の二千八百に比べて断然多いです。その多くは中興俳諧らしい秀句に満ちております。中興俳諧の一般的な特色は、自然観照を基本にした清新な抒情と柔らかな感傷にありました。これらは非現実的な空想趣味や耽美的態度に支えられたものでした。この派の代表としては蕪村が挙げられるが、五明の句にもこうした傾向のものが多いのです。
五明と京都
五明の父祐祥は、那波姓を名乗り、通称を三郎右衛門といいました。京都室町の呉服問屋でしたが火災にあい、かねて金を用立てていた秋田藩主佐竹氏を頼って宝永六年に秋田に移住しました。この時祐祥は三十八歳――『古今秋田英名録』には、那波家は慶長年中に秋田佐竹初代義宣の軍用を弁じてから、代々佐竹家の用度をまかなっていたと記されております。
秋田に移った祐祥は、藩から外町の屋敷をもらい、御用商人となり、財を築いていきました。五明が育ったころには秋田城下の商業中心地である茶町菊之丁で、すでに富商として重きをなしておりました。
那波初代は教養人でした。京都から北辺の秋田に来たので何かにつけ故郷京都をしのんでいたようで、藩から貰った屋敷は、京都の生家のある町名そのまま「室町」と改めたほどであります。
五明は父の回忌のつど追善の句文を霊前に捧げておりますが、その前書きに、父は京都室町の出で、その町は祇園祭に菊水鉾(ほこ)を出している、と誇らしげに述べております。那波家の家風は万事京風だったようで、年中行事の口上などは、近年まで京ことばを使っていたようです。こうした京都風の環境の中で育った五明は、自分は京都人の子だという誇りと京都崇拝の気持ちを根強く持っていたと想像されます。
五明と秋田藩主佐竹家
五明は佐竹家の覚えがめでたかったようです。安永三年、四十四歳のとき藩主義敦(曙山)が鷹狩りの途次五明の寄居虫楼に立寄られました。また寛政三年、六十一歳の折りには次代藩主義和(天樹院)が小夜庵を訪問されました。<わが庵と思はれぬ風の薫りかな>はこの時義和に奉った句であります。
さらに寛政十二年(七十歳)には藩主義和から芭蕉の一軸と金千疋を賜っております。高齢の五明の感激は大きく歌仙集『君のたまもの』を編しました。一族が繁栄し、六百の門弟を擁している中で、藩主から贈物をいただいたのでありますから、それは幸福な晩年だったのではないでしょうか。
五明と馬鈴薯
俳諧とは関係がないことですが、五明は秋田に馬鈴薯栽培を普及した功労者でした。天明三年の凶作の年に下総(千葉)の歌僧美丸法師が五明の小夜庵を訪れました。美丸は秋田農民の窮状を見て帰り、天明六年に再び来訪した時、琉球種のアップラ(馬鈴薯)を頭陀袋(ずだぶくろ)にしのばせて持って来ました。翌春、五明が菜園に植えたところ、夏になって茎高くのびて花をつけました。
『花咲いて 根に待たれけり 草の種』
これがきっかけとなって、佐竹領に救荒食物としての馬鈴薯の栽培が盛んになり、二十年後には市場で売られる程に普及したのです。アップラはオランダ語のアールト・アッペル(土のリンゴ)のなまったものと思われ、南秋田方面では今でもそう呼んでいる地域もあるようです。
五明の人柄
五明は社交的で積極的で、大きな包容力と指導力を持っておりました。広く国外俳人と接触して東北の田舎にいながら一流となれたのは、京都商人の血を引いていたことに大いに関係があったと思われます。五明は多くの人々に愛され文通した全国の俳人は六百を超え、これらの俳人が俳書を作る時には必らず句を求められました。また江戸の宗讃、京の重厚・播磨(はりま)の玉屑(ぎょくせつ)などの著名俳人の来訪を受けておりました。
現在の五明
五明の遺作の数々は秋田市の文化財に認定されております。
「吉川五明」年表
- 享保16年(1731 年)
- 秋田城下茶町菊之丁の豪商、那波三郎右衛門祐祥の五男として生まれる(幼名 伊五郎)
- 享保4年(1747 年)
- 吉川可雲と俳句を作りはじめる
- 寛延元年(1748 年)
- 豪商吉川惣右衛門吉品(可雲の父)の養子となる
- 宝暦12年(1762 年)
- 俳号を『五明』と改める
- 安永3年(1774 年)
- 芭蕉没後80年に八橋宝塔寺に記念碑を建立し供養を行う
- 安永3年(1774 年)
- 佐竹義敦藩主が鷹狩に出向かれた時に五明の庵に立ち寄る
- 安永4年(1775 年)
- 宗家吉川吉敏藩主から御紋の羽織を頂き宗家の留守を守る
- 天明2年(1782 年)
- 旧庵(風月亭虫二房)に手を入れて≪小夜庵≫と名付け入庵
- 寛政3年(1791 年)
- 佐竹義和藩主を小夜庵に迎える
- 寛政5年(1793 年)
- 芭蕉百回忌に八橋菅原神社に芭蕉翁塚を建立する
- 寛政12年(1800 年)
- 佐竹義和藩主より芭蕉の句一軸と金千疋を賜る
- 享和3年(1803 年)
- 73歳でこの世を去る。八橋帰命寺の墓に葬られる
- 文化元年(1804 年)
- 五明碑が宝塔寺境内に建立「日向あり陰あり芭蕉静かなり」の句が刻まれる
- 昭和54年(1979 年)
- 秋田市指定文化財となる
五明の作品
以下の三句は碑になっていて、一番知られている句です。
『日向あり 日陰ありて 芭蕉静かなり』
八橋宝塔寺境内に五明の遺族と門弟たちが建てた句碑があります。この句は五明の会心作だったらしく、五十嵐嵐児に描かせた肖像(平野政吉氏蔵)にこの句を讃しており、また半切や短冊に書いたものも残っております。
『降る中に 降り込む音や 小夜時雨(しぐれ)』
明治三十五年五明百回忌に川尻上野の小夜庵遺跡に句碑が建てられておりましたが、遺跡が道略拡張のため取払らわれた際、残念ながら行方不明になってしまっております。
『鳥の糞(ふん) 地に音高し 夏木立』
川尻総社神社境内に句碑がありました。しかしこちらも残念ながら今は見当りません。
抒情的、物語的なものとしては以下の句があります。
『辻店や 誰が涙の 古雛(ひいな)』
『しら魚の しろき間も しばしかな』
『鶯に 衣(きぬ)流したる 女かな』
『髪結ひの 手の冷たさよ 五月雨』
『うたた寝の 瞼(まぶた)を徹(とお)す 若葉かな』
『葛(くず)水に 淋しき匙(さじ)の 光かな』
『けふの月 祗園にせばや 新豆腐』
『聞ぞ聞け 暁の鐘 霜の声』
絵画的なものとしては
『菜の花や 海少し見ゆる 山の肩』
『つばくろの 顔掻く肩の とがりかな』
『雲を蹴て 月を吐いたり ほととぎす』
『鹿鳴いて 尾上の杉の とがりけり』
『野の末の 月に雉子(きぎす)の 頭かな』
『逆のぼる 鮭に月飛ぶ 早瀬かな』
『栗一つ 握りて丸き 子の手かな』
『海手から 砂山うるむ しぐれかな』
写生句としては
『防風掘る 浜のくだりや 朝じめり』
『細雨見れども 見えず桜の 撓(たわ)む夕かな』
『日は山に 入りてしだるる 柳かな』
『海に入りて 眼に限りなし 五月川』
『松やにの なだれて男し 枝の折れ』
『むしり喰ふ 馬や林の 草の音』
『痩せきびの 節々折れて 秋暮れぬ』
『雨たたく わらび根寒し 沢の秋』
『蜻蛉(とんぼう)の 畳すりゆく 秋暑し』
『雨に声なし つららの折るる 音折々』
郷土的なものでは
『垂るは垂るは 軒の垂氷(たるひ)の 旭影』
『薄霞 肥(こえ)引く雪の 絶間かな』
『山中や 毛皮下げ置く 軒の梅』
『降りながら 雪も霞むや 柳市』
『何処となく 野を焼く匂ひ 腹減りぬ』
『年古き 梅あり秣(まぐさ) 積める家』
『沢蕗や 人ゆく後の ゆれ残る』
『蛙(かわず)鳴く あとや広がる 土油』
『味噌桶に 水を張込む 柳かな』
『けふもまた 大根くさし 冬ごもり』
『雪の野や 人を枝折に 人の行く』
最後に俳文を一つ記します。
甘鯛の味噌漬、沖鯖(おきさば)の刺身、青鷺(さぎ)に蓴菜(じゅんさい)とほのめき、畑の青豆はじかせて、臍(へそ)の穴の見えぬ程に水飯喰ひ、戸板に藺莚(いむしろ)走らせ、男鹿の山風に背中を吹かせ、太平山の月に対して、思ふ事もなく云ふ事もなく、是ぞ仏の心なるべし。
涼しさに死ぬ稽古せん一枕
秋田っ子の心意気がうかがわれる痛快な作品です。
脚注
俳文学会員の藤原弘氏著「吉川五明集」から抜粋、編著。
藤原氏は他に「古浄瑠璃正本集」「説経節正本集」「江戸時代秋田の俳文たち」「秋田俳春大系・近世初期編」などの編著書のほか、共著で『秋田俳譜史』などの業績があります。